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貴ノ花利彰とは何者か?東大関の実績、北の湖との初優勝と貴乃花との違いを徹底解説

久長 澪 久長 澪 • 更新: • 公開: • 読了約 16 分
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大相撲の人気力士として一時代を築いた貴ノ花利彰(たかのはな・としあき)。本名は花田満。第45代横綱・初代若乃花を兄に持ち、細身ながら驚異的な足腰と粘り強い相撲で観客を魅了した元大関です。最高位は東大関で、幕内優勝は2回。なかでも1975年3月場所、横綱・北の湖との優勝決定戦を制した一番は、相撲史に残る名勝負として知られています。

一方、2026年現在、「貴ノ花」と検索すると、息子の第65代横綱・貴乃花光司と混同されることも少なくありません。父の貴ノ花利彰は2005年5月30日に55歳で亡くなっています。この記事では、日本相撲協会の公式力士プロフィールや大相撲の映像アーカイブなどを手がかりに、現役時代の実績、初代若乃花との兄弟関係、引退後の藤島部屋での指導、父子の名前の違いまで整理します。

【貴ノ花利彰とは】花田満の素顔と東大関としての実績

貴ノ花

貴ノ花利彰は、1950年2月19日生まれの元大相撲力士です。本名は花田満。北海道室蘭市生まれと紹介される一方、日本相撲協会の公式プロフィールでは出身地を青森県弘前市と記載しており、資料によって表記が異なります。

身長183センチ、体重114キロという体格は、巨漢力士が並ぶ土俵では比較的細身でした。得意技は左四つ、寄り、吊り、上手投げ。相手の力を受け止め、土俵際でも体勢を立て直す柔軟な足腰が大きな武器でした。

当時のファンから「角界のプリンス」と呼ばれたのは、端正な顔立ちだけが理由ではありません。大柄な相手に真正面から立ち向かい、劣勢から逆転する取り口には、勝敗を超えて観客を引きつける魅力がありました。兄が「土俵の鬼」と呼ばれた初代若乃花だったことも、花田家の力士として注目を集めた背景です。

日本相撲協会の公式プロフィールによると、貴ノ花の生涯戦歴は726勝490敗58休、幕内戦歴は578勝406敗58休。幕内優勝2回に加え、殊勲賞3回、敢闘賞2回、技能賞4回を獲得しています。大関在位は1972年11月場所から1981年1月場所までの50場所に及びました。

注目したいのは、最高位が横綱ではなく「東大関」だった点です。2度の幕内優勝を果たし、横綱昇進への期待を集めながらも、最後まで綱をつかむことはできませんでした。しかし、横綱になれなかったことと、力士としての価値が低いことは同じではありません。長期間にわたり大関の地位を守り、故障と向き合いながら土俵に立ち続けたこと自体が、貴ノ花の実績を物語っています。

【経歴・年表】花田満から貴ノ花へ、大関昇進と2度の優勝

貴ノ花の歩みを理解するには、入門から大関昇進までの苦労と、1975年の2度の優勝を分けて見る必要があります。華やかな人気の陰には、番付を下げた時期や体調不良を乗り越えた経験がありました。

年月・時期 出来事 主な意味・実績
1950年2月19日 花田満として誕生 初代若乃花の弟として育つ
1965年5月場所 初土俵 二子山部屋で力士人生を開始
1968年11月場所 新入幕 幕内力士としての挑戦が始まる
1969年5月場所 「貴ノ花」に改名 以後、この四股名で広く知られる
1970年1月場所 再入幕 10勝5敗で敢闘賞を獲得
1972年11月場所 大関昇進 最高位は東大関
1975年3月場所 幕内初優勝 北の湖との優勝決定戦を制す
1975年9月場所 幕内2度目の優勝 横綱昇進への期待が高まる
1981年1月場所 現役引退 大関在位50場所で土俵を去る
1982年 藤島部屋を創設 後進の育成に本格的に取り組む
1993年 二子山部屋を継承 兄の部屋と合流し、指導を続ける
2005年5月30日 死去 55歳で生涯を終える

入幕後の貴ノ花は、一度十両へ陥落するなど、順風満帆とはいえない時期を経験しました。1969年5月場所に「貴ノ花」と改名し、1970年1月場所には再入幕。10勝5敗で敢闘賞を獲得すると、同年9月場所には新小結で9勝を挙げ、殊勲賞も受賞しました。

こうした実績を積み重ね、1972年11月場所に大関へ昇進。以後、約8年にわたって大関の地位を維持しました。1975年には春場所と秋場所で幕内優勝を達成し、横綱昇進を期待する声も高まりましたが、その後は故障や体調面の問題に苦しみ、昇進は実現しませんでした。

【北の湖との優勝決定戦】1975年春場所、座布団が舞った名勝負

貴ノ花の現役人生を象徴する一番が、1975年3月場所の優勝決定戦です。千秋楽を迎えた時点で、貴ノ花は13勝1敗、横綱・北の湖は12勝2敗。貴ノ花は本割で北の湖に勝てば初優勝という状況でしたが、千秋楽の直接対決で敗れ、両者が13勝2敗で並びました。

優勝の行方は、同じ日に行われた優勝決定戦へ持ち越されます。相手は当時の強豪横綱・北の湖。若く勢いのある横綱に対し、貴ノ花は大関としての意地と悲願の初優勝を懸けて土俵に上がりました。

決定戦では、北の湖が右から上手を引き、貴ノ花は左を引きつけて相手に食いつきました。北の湖が強引な上手投げを仕掛けても、貴ノ花は腰を落としてこらえます。最後は右手を送り、相手の体勢を崩しながら土俵際へ寄り進み、北の湖を土俵の外へ出しました。

勝負が決まると、館内には興奮した観客が投げた座布団が乱れ飛びました。土俵上の勝敗だけでなく、観客席の熱狂まで含めて、貴ノ花の人気を象徴する場面として語り継がれています。大相撲公式ファンクラブの映像アーカイブにも、1975年春場所の貴ノ花と北の湖の取組が残されています。

初優勝が持つ意味は、単に優勝回数が1つ増えたことではありません。貴ノ花は、細身の体格や故障の多さを抱えながらも、横綱を倒して頂点に立てることを証明しました。同年9月場所にも優勝し、幕内優勝は通算2回となります。兄であり師匠でもあった二子山親方が、優勝旗を受け取る弟の姿を見守ったことも、この優勝を印象深いものにしました。

【人気の理由】細身の体と粘り腰、そして大鵬との対戦

貴ノ花の人気は、勝ち星や優勝回数だけでは説明できません。体格で上回る相手に対しても、すぐには土俵を割らず、驚くほどの粘りを見せる相撲が観客の心をつかみました。相手に攻め込まれても腰を落とし、体勢を崩されながら逆転する。その一連の動きが、貴ノ花ならではの見せ場でした。

得意とした左四つからの寄りや吊り、上手投げは、単純な力比べではなく、相手の重心を捉える技術が大切です。長身でありながら比較的軽量だった貴ノ花は、体格差を補う技術と柔軟性を磨き、強敵との対戦で存在感を示しました。

横綱・大鵬との対戦成績は、通算2勝3敗です。貴ノ花は1971年1月場所の対戦で足を負傷して途中休場しましたが、同年5月場所には大鵬から白星を挙げました。この一番は大鵬にとって現役最後の敗戦となり、その後の引退につながったことで知られています。若手時代の貴ノ花が、昭和の大横綱に勝った経験は、相撲界での評価を高める出来事でした。

また、人気を支えたのは端正な顔立ちと、土俵上での懸命な姿勢の組み合わせです。「角界のプリンス」という呼び名は、単なる容姿への評価ではありませんでした。華やかな印象を持ちながら、相撲では泥臭く勝負に食らいつく。そのギャップこそが、幅広い層の観客を引きつけた理由の一つです。

【初代若乃花との兄弟関係】兄であり師匠でもあった二子山親方

貴ノ花を語るうえで欠かせない人物が、兄の初代若乃花です。本名は花田勝治。第45代横綱として「土俵の鬼」と呼ばれ、引退後は二子山部屋を率いました。貴ノ花は10人兄弟の末子で、長兄とは22歳の年齢差がありました。兄がすでに幕内力士として活躍していた時期に生まれた弟が、後に同じ角界で大きな人気を集めたのです。

兄弟の関係は、家庭内の年長者と末っ子というだけではありませんでした。初代若乃花は貴ノ花の師匠でもあり、弟の稽古や力士としての成長に責任を負う立場でした。兄としての情と、師匠としての厳しさ。その両方が、貴ノ花の相撲人生に影響を与えました。

1975年の初優勝は、兄にとっても特別な出来事でした。自ら育てた弟が横綱を破って優勝したことは、二子山部屋の指導者としての成果でもあったからです。一方で、優勝したからといって指導が甘くなるわけではありません。師匠としては、さらに上の横綱を目指すよう弟を鍛え続ける必要がありました。

この厳格な指導方針は、後に貴ノ花自身が息子たちを育てる際にも受け継がれます。長男の花田勝は若花田、のちの若乃花として活躍し、次男の花田光司は貴花田から貴ノ花、さらに貴乃花へと改名して横綱に昇進しました。親子二代にわたって、相撲の技術だけでなく、稽古への姿勢や師弟関係の厳しさが伝えられたのです。

【引退後の藤島部屋】貴ノ浪や安芸乃島を育てた指導力

貴ノ花は1981年1月場所を最後に現役を引退しました。長年、頭から当たる相撲を続けたことで頸椎を痛め、足の負傷なども重なっていました。引退場所では力の衰えを感じ、体重を増やして補おうとするなど、現役続行の道を模索したものの、満身創痍の体で土俵に立ち続けることは難しくなっていました。

引退後は年寄・鳴戸を襲名し、二子山部屋付きの親方となります。1982年には藤島へ名跡を変更して独立し、藤島部屋を創設しました。現役時代に培った相撲の技術と厳しい稽古の経験を、次世代の力士育成に注ぎ込んでいきます。

藤島部屋からは、長男の若花田、次男の貴花田のほか、後に大関となる貴ノ浪、関脇に昇進する安芸乃島や貴闘力など、実力ある力士が育ちました。部屋の稽古については、量が多いだけでなく、一つひとつの内容が濃く、関取も若い力士も一緒になって仕上げのトレーニングまで行っていたと、琴錦が後年振り返っています。

指導者としての貴ノ花の特徴は、息子たちを含む弟子に対して、家族関係と師弟関係を明確に分けようとした点にもあります。息子たちが入門した際には、甘やかさない姿勢を示し、親子だからこそ特別扱いしないという厳しさを貫きました。兄・初代若乃花から受けた指導を、自分の部屋でも実践した形です。

一方、指導者としての評価を一面的に捉えるべきではありません。藤島部屋は多くの有力力士を育てましたが、巨漢力士に体格を生かした相撲を身につけさせることには課題もあったとされています。優れた実績を残した指導者であっても、すべてのタイプの力士を同じように育てられるわけではないという点は、貴ノ花の親方人生を考えるうえでも重要です。

1993年には兄の二子山親方から名跡を引き継ぎ、藤島部屋は二子山部屋へと改称されました。これは単に部屋の名前が変わったというだけでなく、兄が築いた相撲部屋の系譜を弟が継承した出来事でもありました。

【貴ノ花と貴乃花の違い】父親との比較と現在の状況

「貴ノ花」と「貴乃花」は、読み方がよく似ているため、検索時に混同されやすい名前です。しかし、両者は別人です。貴ノ花利彰は1950年生まれの元大関で、本名は花田満。貴乃花光司は1972年生まれの実子で、第65代横綱です。

混同が起きる大きな理由は、息子の貴乃花が現役時代に父の四股名を一時的に名乗っていたことです。日本相撲協会の公式プロフィールによると、息子の四股名は「貴花田」から「貴ノ花」、さらに「貴乃花」へと変わっています。そのため、1990年代の相撲記事や番付を読む際には、どの時期の誰を指しているのかを確かめる必要があります。

父と息子の違いは、最高位にも表れています。父の貴ノ花は東大関で、幕内優勝は2回。息子の貴乃花は横綱に昇進し、幕内優勝22回を記録しました。日本相撲協会の公式プロフィールでは、父は左四つ、息子は右四つを得意とする力士として紹介されており、得意とした型にも違いがあります。

体格にも差がありました。両者の身長はともに183センチですが、公式プロフィール上の体重は父が114キロ、息子が150キロです。父は細身ながら粘り強さと技術で勝負し、息子はより大きな体格を生かしながら横綱として長く優勝争いを繰り広げました。親子で同じ土俵に立ったわけではありませんが、異なる時代にそれぞれの相撲で頂点を目指した点が特徴です。

では、貴ノ花の「現在」はどうなっているのでしょうか。貴ノ花利彰本人は、2005年5月30日に55歳で亡くなっています。現在も活動する親方や力士ではありません。検索結果で現在の貴乃花光司の情報が表示される場合は、父の貴ノ花利彰と息子の貴乃花光司を区別して読むことが大切です。

【貴ノ花】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:貴ノ花利彰の最高位は横綱ですか?
A1:いいえ。最高位は東大関です。幕内優勝を2回達成し、横綱昇進を期待されましたが、横綱にはなっていません。大関在位は50場所、生涯戦歴は726勝490敗58休です。

Q2:貴ノ花は北の湖との優勝決定戦で何を成し遂げましたか?
A2:1975年3月場所、千秋楽の本割で北の湖に敗れた後、13勝2敗同士で争う優勝決定戦に勝利し、幕内初優勝を果たしました。観客が座布団を投げるほどの熱狂を呼んだ一番として知られています。

Q3:貴ノ花と貴乃花は親子ですか? また、貴ノ花は現在も存命ですか?
A3:貴ノ花利彰は貴乃花光司の父親です。父は本名・花田満で、最高位は東大関。息子は第65代横綱で、四股名を貴花田、貴ノ花、貴乃花と変えました。父の貴ノ花利彰は2005年5月30日に55歳で亡くなっています。

【プロの結論】貴ノ花の価値は「横綱になれなかった大関」では測れない

貴ノ花利彰の相撲人生を振り返ると、横綱昇進を果たせなかったことだけに注目するのは適切ではありません。大関として50場所を務め、幕内優勝2回を達成。北の湖との優勝決定戦や大鵬からの白星など、強敵を相手に記憶に残る勝負を繰り広げました。細身の体格を補う技術、驚異的な足腰、最後まで勝負を諦めない姿勢が、貴ノ花の人気を支えました。

引退後も、その歩みは藤島部屋の創設と後進の育成へと続きます。貴乃花や若乃花、貴ノ浪、安芸乃島らの活躍は、貴ノ花が現役時代に培った経験を次の世代へ伝えた成果の一つです。兄・初代若乃花から受け継いだ厳しい指導を、自らの部屋で実践したことも、相撲史における重要な足跡となりました。

2026年に貴ノ花について調べる際の判断基準は、名前、時代、最高位の3点です。「貴ノ花利彰」「花田満」「東大関」という情報があれば父の人物像をたどりやすくなり、「貴乃花光司」「第65代横綱」という情報があれば息子の記録と区別できます。名前の似た親子を正しく見分けることで、昭和から平成へと続く花田家の相撲史も、より立体的に理解できます。

貴ノ花利彰は2005年にこの世を去りましたが、北の湖との名勝負、角界のプリンスと呼ばれた人気、そして指導者として育てた力士たちの記録は、今も大相撲の歴史に残っています。横綱という称号だけでは測れない力士の魅力を知るうえで、貴ノ花は今なお振り返る価値のある存在です。

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